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大阪高等裁判所 昭和58年(ネ)1228号 判決

控訴人(附帯被控訴人)

右代表者法務大臣

住栄作

右指定代理人

笠原嘉人

外一名

被控訴人(附帯控訴人)

甲野太郎

右訴訟代理人

相馬達雄

山崎忠志

平木純二郎

山本浩三

中嶋進治

豊蔵広倫

小田光紀

藤山利行

主文

一  本件控訴に基づき原判決中控訴人敗訴部分を取消す。

二  被控訴人の請求を棄却する。

三  本件附帯控訴を棄却する。

四  訴訟費用(附帯控訴費用を除く。)は第一、二審を通じてこれを二分し、その一を控訴人の負担とし、その余を被控訴人の負担とし、附帯控訴費用は被控訴人の負担とする。

事実

一  控訴人(附帯被控訴人、以下「控訴人」という。)代理人は、本件控訴につき、「原判決中控訴人敗訴部分を取消す。被控訴人の右請求を棄却する。訴訟費用は第一、二審とも被控訴人の負担とする。」との判決を求め、附帯控訴につき、「本件附帯控訴を棄却する。」との判決を求めた。

被控訴人(附帯控訴人、以下「被控訴人」という。)代理人は、本件控訴につき、「本件控訴を棄却する。控訴費用は控訴人の負担とする。」との判決を求め、附帯控訴として、「原判決中被控訴人敗訴部分を取消す。控訴人は被控訴人に対し金三九八万三八七一円及び内金三一三万三八七一円に対する昭和五五年六月一四日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。訴訟費用は第一、二審とも控訴人の負担とする。」との判決を求めた。

二  当事者双方の主張並びに証拠関係は、次に付加するほかは、控訴人に関する原判決事実摘示のとおりであるから、ここにこれを引用する(〈省略〉)

(控訴人の主張)

1  勾留の維持について

(一) 一般論として、具体的な捜査の過程において裏付け捜査の必要性が生じていたのに捜査機関が怠慢によつてこれをなさず、いたずらに被疑者の身柄を拘束したというのであれば、かかる捜査官の措置が違法と評価されることは当然であろう。しかし、問題は具体的な捜査の過程において、裏付け捜査の必要性が生じていたか否かということにある。そうして、検察官は、いわゆる警察送致事件については、原則として、警察から事件記録の送致を受けることによつてはじめて捜査に着手するとともに、検察官としての独自の捜査責任も生じるものであることはいうまでもない。したがつて、本件において、検察官が被控訴人の勾留を請求したことが違法であるというためには、検察官が警察から被控訴人に係る本件窃盗被疑事件の送致を受けた時点以降において、原判決の判示する裏付け捜査の必要性を生じさせる捜査状況があつたことを要するが、この点については、なるほど、原判決の判示するように、被控訴人は昭和五四年(以下、特に記載のない限り、日時はいずれも昭和五四年であるのでこれを省略する。)一一月二七日本件窃盗被疑事実により検察官に通常逮捕されて後、同月二九日検察官に事件送致されるまでの間に、取調べの警察官に対し、本件金庫に付着していた被控訴人の指紋につき弁解し、取調べの警察官によつて同月二八日付で右弁解内容を記載した取調べ状況捜査報告書が作成されているものの、検察官送致の時点では右捜査報告書は送致記録中になく、他に送致記録中に被控訴人が本件指紋につき弁解していることを窺わせるに足る資料もなかつたうえ、事件送致後検察官が被控訴人に対し、本件窃盗被疑事実について弁解を録取した際にも、被控訴人は被疑事実を単純に否認するのみで本件指紋について何らの弁解をもしていなかつたのであるから、このような捜査状況下においては、検察官には被控訴人の本件指紋に関する弁解について裏付け捜査をする必要性は生じていなかつたものというべきである。そうだとすると、検察官が被控訴人の本件指紋に関する弁解についての裏付け捜査を実施しないまま被控訴人の勾留を請求したとしても、その措置には、勾留請求に当つての検察官の手持時間の制限を理由とするまでもなく違法はなかつたものというべきである。

(二) 原判決は、被控訴人に対する一二月一日以降の勾留の継続を違法であるとしているが、被控訴人が勾留された後はもつぱら警察官が被控訴人の取調べに当つており、検察官は一二月六日に至つてはじめて被控訴人を取調べたもので、この間被控訴人が本件指紋について弁解していること自体知らなかつたのであるから、このような捜査状況下においては、少なくとも一二月六日までは被控訴人の右弁解について自ら裏付け捜査を実施することはもとより、警察官に指示してこれを実施させることもできなかつたものというべきであり、したがつて、検察官がこれらの裏付け捜査実施の措置をとらず被控訴人の勾留を継続したことをもつて違法であるとはなし得ない。

(三) このように、検察官には、少なくとも一二月六日に被控訴人を取調べるまでは、被控訴人の弁解について裏付け捜査を怠つた違法はないが、右同日には被控訴人の本件指紋に関する弁解内容を記載した警察官作成の取調状況捜査報告書が関係書類追送書として検察官のもとに送付されており、検察官もその時点では被控訴人の弁解を知つたものといえるから、検察官にはそれ以降被控訴人の右弁解について原判決の判示するような裏付け捜査を実施すべき義務があつたのではないかということが問題となるが、警察作成の右関係書類追送書によつて一二月六日までの捜査経過をみると、被控訴人は警察に逮捕された当初こそ本件窃盗被疑事実を否認し、奈良県には一度も行つたことがない等と供述し、その後奈良県に行つたことがあることは認めたものの被疑事実についてはなお否認し、次いで本件指紋付着の経緯について弁解しつつ否認を続けていたが、検察官送致後の弁解録取に際しては再び被疑事実を単純に否認し、勾留の翌日である一一月三〇日には被疑事実を自白するに至り、その後一旦単純否認に転じたものの再び自供に戻り、以後自供の態度を維持しつつ一二月四日には警察官に対し詳細に自白するとともに、同月六日の検察官の取調べに際しても、被控訴人の本件指紋付着の経緯について弁解しなかつたことはもとより、従前の否認の動機、自白に至つた心情等に言及しながら本件窃盗被疑事実を自白したことが認められ、一方、被控訴人の従前の弁解は乙山春子の供述調書に照らし、信用性に疑問があつたうえ、警察において一一月三〇日までに本件金庫につき本件被害者で最終の所有者である丙川鉄工株式会社(以下「丙川鉄工」という。)から順次その前所有者を確認するいわゆる突き上げ捜査を実施しており、その結果によると、被控訴人の弁解している金庫と本件金庫とは別個のものであることが認定できる状況であつたから、検察官がこれらの諸事情を彼此総合して、被控訴人の弁解につき従前なしている裏付け捜査以上の裏付け捜査を実施する必要性はないものと判断し、被控訴人について依然として本件窃盗罪を犯したことを疑うに足りる相当の理由があり、かつ、拘束を継続する必要があるものと判断し、勾留を維持したことには何らの違法もないというべきである。

(四) ところで、警察官と検察官はともに一般的捜査機関として犯罪の捜査に当るものではあつても、両者はそれぞれ独立の機関として、その関係も原則的には協力関係に立つものであり(刑事訴訟法一九二条)、また刑事訴訟法自体、捜査機関としての機能面や人的、物的組織ないし装備面から検察官よりむしろ警察官がいわゆる第一次的捜査機関として犯罪捜査に当ることを想定しており(同法一八九条、一九一条)、現実にもそのようなものとして機能していることが明らかである。犯罪捜査におけるこのような警察官と検察官との関係に鑑みると、警察官が検察官に指示されてでなく、自らの責任で行つた捜査活動について検察官が責任を負うことは原則としてあり得ないものというべきところ、原判決は、格別の理由も示すことなく、警察における被控訴人の自白調書が違法な取調べの結果作成されたものであり、検察官が直接その取調べに関与していないとしても、それを理由として検察官の措置を正当づけることは公正でないとしているのであるから、これは結局のところ、検察官が警察官の捜査活動を承継し、これについて責任を負うべきであるとするのと同断であつて、まことに失当というほかない。更に、原判決は、被控訴人の勾留を継続した検察官の措置につき過失があつた旨判示しているが、検察官の取調べが違法であることを理由として被控訴人の勾留を継続した検察官の措置が違法と評価されるべきものであるとしても、そこから直ちに検察官の当該措置に過失があつたことにはならないものというべきである。そうして、本件においては、被控訴人自身が検察官の取調べに際して何らの弁解もなさなかつたばかりでなく、むしろ積極的に従前の否認の動機、自白に至つた心情をもまじえながら自白しているのであり、このような被控訴人の供述態度に照らすと、検察官が被控訴人に対し、本件窃盗罪を犯したことを疑うに足りる相当の理由があり、勾留維持の必要があるものと判断したとしてもまことにやむを得なかつたもので、検察官には過失はなかつたものというべきである。

2  公訴の提起について

(一) 弁解の信用性について

被控訴人が本件指紋の付着遺留の経緯について弁解するような事実が認められるとすれば、原判決の判示するように、指紋の付着時期が本件犯行当日より前になる可能性も出てくるから、弁解は意味を持つことになるが、乙山春子は丙川鉄工における本件金庫の購入後金庫の内外を全て拭いたとして、金庫購入前に付着されていた被控訴人指紋の遺留の可能性を否定する供述をしており、これによると、被控訴人の弁解の信用性はかなり疑問となるうえ、警察が、慎重を期して被控訴人の弁解につき、本件金庫の出所の観点から突き上げ捜査を実施したところ、被控訴人の弁解にかかる金庫と本件金庫とは別個のものであることを認定せしめる証拠が出てきたのであるから、同証拠の信用性に疑問を生じさせる特段の事情が生じていない以上、改めてこれらの点について裏付け捜査を行う必要性はなかつたものというべきであるし、少なくとも、検察官がこれらの事情に照らし、裏付け捜査の必要性がないものと判断したとしても、その判断に過失があつたとすることはできないものというべきである。そうだとすると、後記被控訴人の自白を離れて被控訴人の右弁解の信用性を判断するとしても、検察官が被控訴人の右弁解につき、自己の罪責を免れるための理由のないものであると判断したとしてもやむを得なかつたものといわざるを得ず、検察官の右判断に過失はもとより違法性もなかつたものというべきである。

(二) 自白の信用性について

被控訴人は当初犯行を全面的に否認していたのであり、一般的にも、否認していた被疑者が否認から自白に転ずるについてはかなりの心理的葛藤があると考えられ、そのため被疑者の供述態度に一見あいまいさや不自然さを残しているように見えることがあることも、捜査の実務においては往々経験することで、何ら異とするには当らないのである。そうだとすると、被控訴人の自供に至る過程において、拷問等の強制的手段が加えられた結果自供したことを疑うに足りる証拠でもあれば格別、そうでない以上、警察官の作成した取調べ状況捜査報告書のみによつて自白の信用性を判断するほかない検察官としては、自白に至る経緯に格別疑問を抱かなかつたとしてもやむを得なかつたものというべきである。したがつて、被控訴人の自白に至る経緯にあいまいさや不自然さがある等として、そこから直ちに被控訴人の自白にはその経緯に照らしても信用性に疑問を持つべき徴表があつたとする原判決の判断は失当というべきである。

また、原判決が、被控訴人の自白につき、その内容自体に不自然さや不明確なものがあつて、信用性に疑問を持つべき徴表があつたとしてあげている諸点のうちのあるものは、格別不自然な供述であるとするには当らないものであり、また、あるものは不自然な供述であると考えられるものの、当該供述について合理的説明がつくものであるというべく、したがつて、結局のところ、被控訴人の自白にはその信用性に疑問を持つべき徴表はなかつたものというべきである。

更に、前記のとおり、被控訴人の遺留指紋についての弁解に関して、公訴の提起までに収集されていた証拠は信用性があったものというべきであるから、検察官にはこれらの点に関して再捜査を実施すべき職務上の注意義務はなかつたものというべきである。したがつて、検察官が本件公訴の提起までに収集されていた全証拠のみによつて有罪判決獲得の見込みの有無を検討し、その結果、本件においては、本件犯行現場に被控訴人の指紋が付着遺留されていたこと、被控訴人は本件遺留指紋について逮捕当初こそ弁解していたものの、同弁解は他の証拠と対比すると信用性が疑わしいといわざるを得なかつたうえ、その後弁解をやめて自白に転じ、公訴の提起に否るまでこれを維持していたこと、検察官が公訴の提起に当つて慎重を期して実施したいわゆる被害付け捜査においても、同行の警察官を誤りなく犯行現場に案内し、実演をまじえながら犯行状況を詳細かつ具体的に説明していること等の諸事情に照らし、被控訴人につき有罪判決を得る見込みがあるものと判断して公訴を提起したものであり、検察官の右判断に過失はもとより違法性もなかつたものである。

3  損害についての被控訴人の主張はいずれも争う。

4  本件損害賠償債務は、控訴人と原審相被告奈良県との不真正連帯債務の性格を有するものであるところ、原審は、「被告奈良県は原告に対し金三九一万六一二九円及び内金三二六万六一二九円に対する昭和五五年六月一四日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。」との判決をなし、奈良県に対する右判決は確定したので、奈良県は被控訴人(原審原告)訴訟代理人弁護士相馬達雄に対し、右判決に基づき、昭和五八年六月二三日、左損害賠償金四四一万〇五二二円(但し、遅延損害金を含む。)を支払つた。よつて、仮に、控訴人について本件損害賠償責任が認められるとしても、右損害賠償債務は奈良県の右支払金の限度において消滅した。

(被控訴人の主張)

1  勾留の維持について

(一) 控訴人は、検察官が、一二月六日の時点までは被控訴人が指紋の弁解をしていることさえ知らなかつたと主張している。

しかし、これは事実に相違する。被控訴人は、検察官から弁解録取を受けたときにも、その前日(一一月二八日)、高田署でC刑事に弁解したのと同様に本件窃盗は身に覚えのないこと、もし本件金庫に自分の指紋が付着しているものとすれば、それは恐らく自分が前年(昭和五三年)の一〇月まで勤務していた大同商事株式会社(以下「大同商事」という。)で金庫の管理をしていたことがあるが、前年の八、九月頃その金庫がバッタ屋に売却されているので、その金庫がまわりまわつて被害会社の所有となつているかも知れず、その金庫なら自分の指紋が付着していても不思議でないので、その金庫でないか調べてほしい旨申し述べている。被控訴人は、全く身に覚えのない容疑で逮捕され、警察では自分の潔白を主張したが、全く聞き入れられなかつたので、検察官なら自分の無実を聞いてくれるものと期待していたから、前述のように意を尽して説明したものである。

したがつて、一一月二九日付送致書類の中に指紋の弁解についての記述がなかつたからといつて、検察官が被控訴人が弁解していることを知らなかつたなどというのは、責任回避のいい逃れにすぎない。

(二) 仮に控訴人の主張のごとく、一二月一日からの勾留継続が違法とはいえないとしても、少なくとも一二月六日以降の勾留継続は違法であるが、その理由は次のとおりである。

検察官は、一二月六日にはC刑事作成にかかる一二月四日付の被疑者供述調書(甲第三五号証)の内容を検討し得る状態になつたが、右自白調書の供述自体において、被控訴人の犯行と断定するうえで、決定的な点で明白に不合理ないし不自然な個所が数多く読みとることができたから、それにもかかわらず自白の体裁がとられているについては、そこに強制、誘導等があつたと考えてしかるべきであるのに、検察官にはそのような検討を加えた形跡は全く見られない。そのことは検察官自身、警察で作成された自白調書をなぞつたにすぎないような調書(甲第三七号証)を作つていることに端的に表われている。

自白調書中の不合理ないし不自然な個所の疑問を何ら解明しなかつたからこそ、検察官は勾留継続の必要性がないことに思いを至さなかつたわけであるが、警察から送致された書類、とりわけ一二月四日付被疑者供述調書の内容の検討を怠り、また、自らも粗漏な捜査に終始したところに勾留継続に関して重大な過失があつたものといわざるを得ない。

2  公訴の提起について

検察官は被控訴人の弁解を真面目に取上げてこれを検討した形跡が全くなくて、粗末な捜査に終始しており、また、不自然な供述であつてもその不自然さに何の疑問もはさんだ様子がないが、もし警察から送致された証拠の矛盾点の解明に努め、また、自らも精緻な捜査をしておれば、このまま公訴提起しても、有罪判決を得ることは到底不可能だと容易に判断することができたものであり、したがつて、公訴提起の点でも、検察官の過失責任は免れないこと明白である。

3  本件損害について

被控訴人が昭和五四年末に受ける予定の賞与額は金三〇万円を下らない額であつたから、右と同額の損害を被つたことは明らかである。そして無実のものが約一か月にわたり獄に呻吟する精神的苦痛は誠に大なるものがあり、しかも、右身柄拘束は被控訴人の落度によるものでなく、捜査官憲の杜撰な捜査を一方的原因とするものであつたことを考えると尚更であり、その結果、被控訴人の社会的名誉は全く失われ、かつ、職を失い、結婚相手も失つてしまい、今でも被控訴人を犯人であると思つている人がいる状況を考慮すれば、本件慰藉料は金五〇〇万円をもつて相当と思料されるものである。また、弁護士費用には着手金と報酬が含まれるのであり、本件においては三名以上の弁護士が担当していることを考慮して、日本弁護士連合会報酬等基準規程に照らせば、原判決が認容する弁護士費用は若干低額に失するものと思料される。

(証拠)〈省略〉

理由

一本件窃盗事件の発生並びに控訴人に対する本件窃盗被告事件の捜査及び公判の経過についての当裁判所の判断は、次に付加、訂正するほかは、原判決理由一(原判決三八枚目表二行目から同四九枚目表四行目まで)認定説示と同一であるから、ここにこれを引用する。

〈中略〉

二本件捜査及び公訴の提起、維持等の違法性並びに過失及び控訴人の責任についての当裁判所の判断は、次に付加、訂正するほかは、原判決理由二、三(原判決四九枚目表五行目から同七六枚目表三行目まで、但し控訴人に関する部分)認定説示と同一であるから、ここにこれを引用する。

1  〈省略〉

2  原判決六三枚目裏五行目「検察官」から同六五枚目表一二行目までを次のとおり変更する。

「本件窃盗被疑事実と被控訴人を結びつける証拠として、本件金庫内小引出正面奥外側から被控訴人の指紋三点が採取されており、これによつて被控訴人が本件金庫に接触したことが認められ、また、本件金庫は丙川鉄工が購入した際その内、外側が拭き取られ、かつ、その後本件金庫内部に接触する可能性のある者は同社の事務員の乙山春子と同社社長の丙川次郎の両名に限られる旨の右乙山の供述調書が存在し、これによつて被控訴人が本件金庫に接触した時期が犯行当日であることが一応推認できることから、被控訴人には本件窃盗被疑事実について罪を犯したと疑うに足りる相当な理由があるものと認められるうえに、被控訴人は一一月二七日に逮捕されて以来同月三〇日に至るまで本件被疑事実を否認しており、当時被控訴人は別件の傷害罪によつて懲役刑の宣告を受けて執行猶予中であつたから、勾留の理由並びに必要性は存しており、被控訴人の弁解するところは詳細かつ具体的ではあるが、被控訴人の述べるダイヤル番号は本件金庫のそれとは違つていたし、転々している可能性のある中古の金庫の流通経路を明らかにするためには相当な手数と時間がかかると思われること、被控訴人の供述するところによると、大同商事は高田署ないし葛城区検察庁の管轄外の大阪市にあつて、しかも既に倒産しているというのであるから、その所在並びに被控訴人が同社に勤務していたことを解明するためにも、またかなりの時間を要すると思われること、捜査は流動的であるから、被疑者の弁解に対して如何なる裏付け捜査をとるかは、その時点における捜査機関の合理的裁量に委ねられるべき事柄であること、更に被控訴人は勾留後比較的早い時期(一一月三〇日)から犯行を自白し、一二月四日には詳細な自白調書が作成され、同月六日の検察官の取調べに対しては何ら否認することなく犯行事実を自白していることに照らせば、検察官が被控訴人の弁解を虚心に受けとめ、その弁解に対する裏付け捜査を自らなし、あるいは警察を指揮してなしたとしても、その間に収集した資料ないしは収集すべきであつた資料を仔細に検討し、公訴の提起をなし得るか否かを判断するまでの間、すなわち、被控訴人に対し公訴の提起をなした日の前日である一二月七日まで被控訴人の勾留を維持したことは違法とはいえない。」

3  原判決六六枚目裏三行目「そして」から同五行目「ないものの」までを「しかも、本件遺留指紋という物的証拠が存するとはいうものの、それが犯行時に付着したとするには疑問が存するうえ」と、同六七枚目裏五行目「せられて」とあるを「させられて」と、同六八枚目表一二行目「金属」とあるを「金庫」と各訂正する。

4  検察官の公訴提起の違法性について付言する。

(一)  検察官が捜査終結時点までに収集していた証拠のうち、本件窃盗事件と被控訴人を結びつける証拠は、本件金庫内に遺留されていた被控訴人の指紋という客観的証拠(甲第一三ないし第一七号証)と被控訴人の司法警察員及び検察官に対する自白調書(甲第三五号証、同第三七号証)の二つであり、かつ、それ以外にはない。

しかしながら、客観的証拠が存するとしても、その証拠価値ないしはその証拠と被疑者を結びつける合理的な証拠の存否については十分検討されなければならないし、自白調書が存するからといつて、そのことをもつて直ちに当該被疑者を真犯人と断定することはできず、その自白が強制誘導等によつて得られる場合もあるのであるから、自白に秘密の暴露があるか、客観的証拠の裏付けがあるか、真犯人であれば容易に説明することができ、また言及するのが当然と思われるような証拠上明白な事実についての説明が欠落していないか、自白中に不自然不合理で常識上にわかに首肯し難い点が多く認められるかどうか、証拠上明らかに客観的事実と思われる事実に反する内容が含まれていないか、自白に不自然不合理な変遷はないかどうかをも検討し、自白中にかかる事項が存する場合には、被疑者がなぜかような自白をしたかについて十分検討し、当初弁解をしていたとすれば、右弁解が信用できるものかどうか、あるいは自白調書作成に至る経過に問題はないか検討し直さなければならず、また、それが法律家たる検察官の使命であり、責務であるといわなければならない。

〈証拠〉によれば、A検察官は、本件遺留指紋という客観的証拠と被控訴人の自白調書並びに被控訴人が犯行現場に誤りなく道案内できたことから、被控訴人が本件窃盗の犯人であつて、有罪判決を得る可能性があると判断したことが認められるが、A検察官が客観的証拠並びに自白調書に対する前記の点の検討を怠り、その結果、事案の性質上当然なすべき捜査を怠つたり、または存在する証拠の評価を誤るなどして事実を誤認し、有罪判決を得る可能性が乏しいにもかかわらず、これを看過して被控訴人を起訴したとすれば、かかる公訴の提起は違法であつて、これにつき検察官に過失があるといわなければならない。

(二)  そこで、まず、客観的証拠たる本件遺留指紋について検討する。

(1)  いわゆる現場指紋は、指頭が物体に触れた場合に、指頭の隆線による紋様が、隆線に付着していた皮脂や汗によつて当該物体に残る像であつて、当該指頭がその物体に触れたことを証明する客観的な証拠ではあるが、指紋が日時の経過によつて検出不能となることは別としても、付着後拭き取つた場合や他の物体が強く擦過した場合には消えてしまうし、指頭が動きながら物体に触れた場合には指紋が付着しにくいことを考慮に入れても、なお、本件において、なぜ金庫内小引出正面奥外側に指紋が付着したかということと、なぜ当該場所以外に付着しなかつたかを検討しなければならない。〈証拠〉によれば、本件遺留指紋は、本件金庫から引出されていた小引出正面奥外側に付着した右手示中環指、右手中環・環小指、左手小指の三個の指紋であることが認められるが、全証拠によつても、指紋の向き(指先の方向)は明らかではない。そこで指紋の向きをも考慮に入れて、本件指紋は犯人が小引出にどのような態様で接触した場合に付着するか、場合を分けて検討することとする。

まず、指先の方向が下向きの場合には、通常物を掴むときのように、小引出の奥正面の縁を親指を内側にし、その余を四指を外側にして持ち上げるときに付着することは考えられるが、その場合には当該遺留指紋の付着箇所の内側に親指の指紋が残る筈であるが、本件の場合には残つていない。また、置いてある小引出を押えたり、手前に引寄せる場合や払い除ける場合にも付着することは考えられるが、右手指紋が二か所と左指紋が一か所付着するかは疑問である。

次に、指紋が上向きの場合には、小引出を掌ないしは腕に乗せるか、胸に押しつけて持つ場合には付着する可能性はあるが、かかる持ち方をするために掴んだ箇所に指紋が付着するほか、掌に乗せたのであれば小引出の底面外側に掌紋が残るであろうし、正常な使用方法としての中の書類等を探すためにかかる持ち方をすることはあつても、窃盗犯人が現金等を探す場合にかかる持ち方をするとも考えられないし、更に犯人が左利きであれば格別、右利きの者が右手で小引出を下から持つことは通常考えられない。また小引出が伏せて置かれていた場合に、それを起こすために触つたときに同様上向きの指紋が残ることも考えられないではないが、その場合には反対側(本件の場合は小引出正面)にもう一方の手の指紋が付着して然るべきであるのに何ら残つていないし、その他伏せて置かれている小引出を手前に引寄せる場合や払い除ける場合にも上向きの指紋が残る場合もないではないが、前同様、左右の手の指紋が同一面にのみ付着するというのも疑問として残る。

更に、指紋が横向きの場合、あるいは一箇の指紋が上向きで他が下向き等の組み合わせも考えられないではないが、いずれの場合にしても、前同様、同一面にのみ両手指紋が付着し、その余の面には何ら残存していないということは通常あり得ないことである。検察官としては、かかる点について当然疑問を抱かざるを得ないところであり、まして、本件小引出ないしは金庫内の棚に存した被控訴人の指紋とも考えられるホコリ指紋を入れても、本件金庫内以外からは被控訴人の指紋が何ら検出されていないことを考慮すればなおのことである。

(2) 客観的証拠たる遺留指紋も、その付着状況を仔細に検討すると、窃盗犯人が遺留した指紋としては疑問が残るものであるから、検察官としては、かかる事実を踏まえて被控訴人の自白を検討し、自白内容によつて右遺留指紋についての疑問点が氷解したのならば格別、そうでなければ右疑問点の解明に努力しなければならないところである。

ところが、被控訴人の司法警察員に対する一二月四日付供述調書(甲第三五号証)中には、本件遺留指紋については、「私が金庫をさわつたのはその後で、もしかして、まだ現金が入つているかも知れないと思つたからです。さわつたところは、金庫内の棚や引出しそれに表面ですが、この時私は、軍手をはめていたと思いますが、もしかして、ぬいでいたかもわかりませんので、私の指紋が残つているとしたら、この金庫の表面はもちろん、金庫内の棚や引出し、それに机の引出しにそれぞれ残つていて当然だと思います。」という極めて抽象的かつ曖昧な供述しかなされておらず、まして被控訴人の検察官に対する供述調書(甲第三七号証)に至つては、「私は、二人が見落していないかと思い、もう一度金庫の中の引出等を全部探しましたが、書類のような物ばかりで、現金はありませんでした。私は、はめていた手袋を無意識のうちにぬいだように思いますので、金庫の中を探す時手袋をぬいでいたかもわかりません。」としか記載されておらず、なぜ金庫内、とりわけ、小引出正面奥外側にのみ指紋が残留しているかについては何ら供述していない。そればかりか、そもそも軍手をはめていたのに、最も指紋が着かないように注意すべき本件金庫に手を触れるに際して軍手を脱いだとされ、その後再び軍手をはめたか否か必ずしも明らかではないが、調書上は、被控訴人は現金を探すべく室内の机等を探したことになつているが、その場所には何ら被控訴人の指紋が残つていないなど、自白それ自体に不自然不合理な点があるばかりか、客観的事実との矛盾をも含んでいて、到底被控訴人の自供からは遺留指紋についての疑問点が解明されないことは明らかである。

(3) そこで、検察官としては、指紋が一部にのみ付着していてその余には何ら付着していない場合には、後に拭き取られたことも考えられるので、乙山春子の供述をよく検討し、中古金庫であれば、使用前に小引出の内側は使用上拭く必要があるとしても、小引出正面奥外側は小引出を抜き取らない限り拭けない箇所であるし、使用上特に拭かなければならない箇所でもなく、乙山春子の供述調書(甲第八号証)には「購入した時金庫がよごれていましたので、私が金庫の外、そして内側もすべて拭いたのです。」とのみ記載されていて、小引出正面奥外側を具体的に拭いたとの記載がないから、当該箇所を拭いたか否かについて再度乙山春子を取調べなければならないことに思い至る筈であるし、被控訴人の当初なしていた、大同商事における金庫使用の弁解も、弁解のための弁解とはいえないのではないかということに思い至る筈である。

そして、被控訴人の当初の弁解(甲第二〇号証、同第三六号証)は、具体的かつ詳細であるから、仮令後に自白に転じているとしても、右弁解を虚心に受けとめ、本件金庫の製造販売ルートの中に大同商事が関与していないか(〈証拠〉によれば、比較的容易に本件金庫が大同商事に販売され、被控訴人が同社に勤務していてそれを管理していたことが判明している。)、あるいは被控訴人の述べるダイヤル番号に従つて、捜査官から当時丙川鉄工に残存していた金庫のダイヤルを操作してみるとか(〈証拠〉によれば、本件金庫の扉は昭和五四年一二月二八日高田警察署に領置されている。)、丙川鉄工に本件金庫のダイヤル番号を再度照会する等の裏付捜査をすれば、比較的容易に、本件金庫がかつて大同商事において被控訴人の扱つていた金庫と同一であることが判明したといわなければならない。

(三)  次に被控訴人の自白について検討する。

被控訴人の自白中には、前記のとおり、遺留指紋について、不自然不合理な箇所があつたり、客観的事実と矛盾すると解される箇所があるほか、犯行態様における秘密の暴露(捜査官が知り得なかつた点に関する自白)は何らなく、かえつて、本件建物内への侵入の仕方とか、本件金庫や自動販売機を壊し金員を窃取した具体的な状況については、全て共犯者の行為とされていて、被控訴人は見張をしていていずれも見ておらず分らないことになつているばかりか、道路に面して立つていて当然目につく筈の自動販売機の所在場所すら知らないことになつているなど、通常犯行の真犯人であれば容易に説明することができ、また言及するのが当然と思われる証拠上明らかな事実について何ら説明がなされておらないし、被控訴人が本件犯行に誘われた理由や共犯者二名に関する点についても以下のような不自然不合理な点が存する。すなわち、被控訴人の司法警察員及び検察官に対する自白調書において、共犯者二名に関し、被控訴人が本件窃盗の当日午後九時頃御堂筋の周防町付近でタクシーを待つていたとき、突然白色のナンバーの分らない普通乗用車に乗つたどこの誰かも分らない二名の若者が近づいてきて被控訴人をその車に乗せ、車内で窃盗の謀議をし、右二名は本件犯行後被控訴人と別れるまで氏名をあかさずじまいであつたということで、A、Bとか甲、乙とか仮称されている。しかし、全く氏素姓も分らない通りすがりの者同志がにわかに意気投合し窃盗の謀議をして奈良の農村部まで窃盗に行くなどということは経験則上不自然というべきである。また、共犯者の氏名はもとより、通称も何ら明らかではない点は、なるほど共犯者を庇う等の理由から共犯者を全く面識のない氏名不詳の者であると供述することは捜査の実務上往々あり得ることではあるが、この点検察官が被控訴人の自白に疑問を抱き被控訴人を追究したことは調書上何ら表われてはいない。また、被控訴人の自白において、被控訴人がなぜ共犯として誘われたか、その理由が明らかではなく、単に住居等に侵入するために見張が必要であるとしても、もともと共犯者は二人いることになつているのであるから、通りすがりの被控訴人を殊更共犯に引入れる理由としては乏しく、金庫を二人で破壊している間被控訴人が見張をしていたことになつているが、そもそも金庫があつてそれを破壊するなどということは事前には分つていないことであり、また、共犯者が多くなればなるほど一人の分け前は少なくなるのであり、本件犯行態様における被控訴人の働き程度であれば共犯に引入れる必要などほとんどなかつたといわなければならず、調書自体不自然不合理なものとなつている。

このように、検察官が少しの注意を払えば、容易に自白ないし供述調書中に種々の疑問点が存することが判明するのであるから、検察官としては、仮令被控訴人が自白していたとしても、その自白内容について疑問点がないか十分検討し、もし疑問点がある場合には、当初なしていた弁解に再度留意するとともに、警察における取調べ状況や自白に至る経過をも検討しなければならない。そして被控訴人は当初否認しており、その弁解は具体的かつ詳細であつたが、その後一応自白し、直後にまた否認し、その後全面自白に転じたものであるが、一二月一日から同月三日まで連日取調べられながら何らの供述調書も作成されていないばかりか、被控訴人が図面を書くことができない旨の捜査報告書(甲第二三、二四号証)もあるのであるから、自白に転じてからも調書作成に至る過程において疑問点が存したといわなければならない。そこで、検察官がこれらの疑問点を質すために再度被控訴人を取調べ、被控訴人の弁解を虚心に聴く姿勢を示せば、検察官に対して、当初なしていた弁解を具体的かつ詳細にしたであろうことは容易に推測でき、それに基づく裏付け捜査をなせば、警察における違法な取調べにより被控訴人が偽りの自白をしてしまったことが判明するのはもとより、被控訴人の本件窃盗に対する嫌疑は全く払拭された筈である。

(四)  以上のとおり、検察官が被控訴人について公訴提起するまでに現に収集されていた全証拠及び検察官が職務上の注意義務を尽せば当然証拠として収集し得たものと認められる全ての資料を総合して判断すれば、被控訴人の無実が積極的に証明されたか、仮にそうでなくても、被控訴人が本件窃盗事件の犯人であると認めるには証拠上顕著な疑いがあつたというべきであり、有罪判決を得る見込みがないものとして、検察官は到底起訴し得なかつたものである。また、公訴提起当時現に収集されていた証拠関係のもとでも、客観的証拠たる本件遺留指紋も、本件犯行に際して付着したと解することには疑問が残り、かえつて被控訴人の弁解に信憑性があると認められるし、被控訴人の自白自体も、その信憑性に合理的な疑いが存するのであり、右二つの証拠を除いて本件窃盗と被控訴人を結びつける証拠の存しない本件にあつては、被控訴人が公判廷において公訴事実を否認した場合に、有罪判決を得る見込はなく、検察官は到底起訴し得なかつたものといわなければならない。そうであれば、検察官が被控訴人の弁解は単なる弁解のための弁解であると速断してその信憑性について吟味せず、本件遺留指紋が本件犯行に際して付着したものであり、被控訴人の自白には十分な信憑性があつて、これらの証拠によつて有罪判決を得る見込みがあると判断したことは、経験則、理論則に照らして到底合理性を肯定することはできず、被控訴人に対する公訴の提起は違法であつて検察官の過失責任は免れないといわなければならない。

三そこで被控訴人の損害について検討する。

1  財産的損害

(一)  休業損害

〈証拠〉を総合すると、被控訴人は、本件窃盗事件当時、訴外大洋物産株式会社(以下「大洋物産」という。)に勤務し月給金一五万円を支給されていたが、逮捕された翌日の一一月二八日から勤務は欠勤扱いとなり、その後同月二九日本件送致、勾留請求を受けて勾留され、一二月二九日保釈により釈放されたが、本件窃盗犯人として公訴追行されていることによつて大洋物産には職場復帰できず、昭和五五年四月二日無罪判決を受けたものの、無実だつたことが世間に周知され、再び就職できたのは同年の一一月になつてからであること、また、控訴人は、昭和五四年末まで大洋物産に勤務していれば、年末賞与として金二〇万円支給される予定であつたが、前記欠勤扱いによつて支給されなかつたことが認められる。

右認定事実からすると、被控訴人は、逮捕勾留による欠勤並びに無罪判決後も相当期間就職できなかつたために、昭和五四年一二月一日以降五か月を下らない期間休業を余儀なくされ、かつ、右年末賞与も得ることができなかつたものと認められるが、昭和五四年一二月一日から起訴日の前日である同月七日までの七日間の拘束については控訴人は有責でないから、同年一二月分の得べかりし利益については金一五万円のうち金一一万六一二九円(八日から三一日までの二四日分)の限度で賠償義務を負うべきであるから、計金九一万六一二九円を下らない休業損害を被つたものと認められる。

(二)  刑事弁護人費用

〈証拠〉を総合すると、被控訴人は、本件窃盗事件の刑事裁判で弁護士中川清孝を弁護人に選任し、合計金三五万円の弁護士手数料を支払つたことが認められ、本件窃盗刑事事件に対して右支出した額は、公判の経過、事件の難易その他諸般の事情を考慮して不相当なものではないと認めることができ、かつ、右は検察官の違法な公訴の提起によつて出捐を余儀なくされたものであるから、被控訴人は右同額の損害を被つたものと認められる。

2  慰藉料

〈証拠〉を総合すると、被控訴人は、無実であるにもかかわらず、本件窃盗事件の犯人として逮捕され、以来一か月余に亘つて身柄を拘束され、その間、弁解をしても何ら聞き入れてもらえず、かえつて虚偽の自白をさせられ、遂に公訴提起され、その結果、被控訴人の社会的名誉は失われ、かつ、職も失い結婚相手も失つたことが認められ、右認定事実によれば、被控訴人が本件によつて被つた精神的苦痛は甚大なものであつたと解される。右身柄拘束が長期に亘りかつ公訴提起されるに至つたのは、前記のとおり、法律家たる検察官が十分な捜査をなさず、証拠の評価を誤つたことによるものではあるが、他方被控訴人としても、検察官の取調べ(一二月六日)に際して何ら弁解することなく、かえつて虚偽の自白をなして検察官に裏付け捜査の必要性や証拠の判断を誤まらせる結果に至らしめたものであることを考慮すると、控訴人が被控訴人に賠償すべき慰藉料は金二〇〇万円をもつて相当と認める。

3  弁護士費用

〈証拠〉を総合すると、被控訴人は、本件訴訟を被控訴人訴訟代理人らに委任し、その報酬として金一五〇万円を支払う旨約しているものと認められるが、本件事案の性質、難易度、審理経過等に照らしても、なお多数の弁護士が関与しなければならない事案とも解されないし、これら諸般の事情並びに認容額に鑑みると、被控訴人が本件不法行為による損害として賠償を求め得る弁護士費用は金六五万円をもつて相当とする。

4  以上の次第であるから、被控訴人は控訴人に対し、損害賠償金三九一万六一二九円及び右損害賠償金から前記弁護士費用金六五万円を控除した残額である内金三二六万六一二九円に対する右不法行為後で本件訴状送達の日の翌日である昭和五五年六月一四日から支払ずみまで民法所定年五分の割合による遅延損害金の支払を求める限度で損害賠償債権を有しているものと認められる。

四損害の填補

控訴人の被控訴人に対する本件損害賠償債務は、控訴人と原審相被告奈良県との不真正連帯債務であるところ、原審は奈良県に対し、「被告奈良県は原告(被控訴人)に対し金三九一万六一二九円及び内金三二六万六一二九円に対する昭和五五年六月一四日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。」との判決をなし、奈良県に対する右判決が確定したことは当裁判所に顕著な事実である。〈証拠〉によれば、奈良県は被控訴代理人相馬達雄に対し、昭和五八年六月二三日右損害賠償金四四一万〇五二二円(但し、遅延損害金を含む。)を支払つたことが認められ、右認定事実並びに前記認定事実によれば、控訴人の被控訴人に対する損害賠償債務額は、奈良県の被控訴人に対するそれと同額であり、奈良県が被控訴人に対し損害賠償額全額を支払い、被控訴人においてこれを受領したのであるから、不真正連帯債務者たる控訴人に対しては最早請求し得ないものである。

五よつて、控訴人に対する請求を一部認容した原判決は失当であつて、本件控訴は理由があるので原判決中控訴人敗訴部分を取消し、被控訴人の請求並びに附帯控訴をいずれも棄却し、訴訟費用の負担につき民訴法九五条、九六条、八九条、九〇条を適用して主文のとおり判決する。

(大野千里 田坂友男 島田清次郎)

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